肝心の一言が聞こえない「あっ」類人猿は出会った相手に敬意を表する・・・春秋 八葉蓮華

 開演前のホール。席に座りうつむいてものを読んでいると、ひざに何か当たる。顔を上げれば、前を人が通り抜けようとしている。無言。込んだ電車が駅に着く。車内の人の流れが収まったころ、ぐいぐい背中を押すものがある。無言。

 「申し訳ありません」とか「降ります」の声も聞こえる。聞こえるのだが、回数がめっきり減った。印象をそう知人に話したらうなずいていたから、的外れでないのだろう。言葉は携帯電話やパソコンを通じてとびかうのに、肝心の一言が聞こえない。渇きをいやす一杯の水に手が届かぬようなもどかしさがある。

 いや、「あっ」は別格だった。人にぶつかって「あっ」、足を踏んでも「あっ」。落とし物に気づかぬ若者を追って手渡せば、やはり「あっ」。おわびにお礼に縦横無尽のこの一語だけは、特に男性の口からやたら出てくるのである。十数年前か、「あっ」がチンパンジー語に由来するらしいという研究があった。

 類人猿は出会った相手に敬意を表するときには「あっあっ」、見下して威嚇するときは「おっおっ」と叫ぶ。日本人の男性も同様で、目上への第一声は「あっ」、目下なら「おっ」になる。京大霊長類研究所などの発表はそんな内容だった。思い出してから目くじらを立てるのはよした。「おっ」でないのだから。

春秋 日本経済新聞 8/2
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