64年の間「長い時間をかけた人間の経験」未来は先へと逃げるが、過去はいつでも現在に雪崩れ込む・・・春秋 八葉蓮華

 14歳のとき学徒動員先の長崎の兵器工場で被爆した作家、林京子さんの小説「長い時間をかけた人間の経験」の中にこうある。「私は被爆者だから、被爆を根にしたシに的を絞って生きてきた」。70歳を間近にこう言う主人公はしかし、愕然(がくぜん)とすることになる。

 8月9日のシに神に足を取られぬよう夢中で走り続けてきた目の前に、老いてシぬ自らの姿が見えたからだ。「考えてもみなかった、新手のシである。降って湧(わ)いた――私にとって、だが――人並みの老シを、よろこんでよいものなのか」。小説から10年。被爆者を覆う新手のシの影は、さらに濃くなっていよう。

 6日の広島の「原爆の日」、原爆症認定訴訟の原告側と麻生首相が原告全員の救済に向けた合意文書に署名した。河村官房長官は「被爆者の方々の筆舌に尽くしがたい苦しみや原告の皆さんの心情に思いをいたし、陳謝する」と話した。「過ちを正すに遅すぎることはない」。英語のことわざがふっと頭をよぎる。

 多様な著作活動で知られた串田孫一に「未来は先へと逃げるが、過去はいつでも現在に雪崩(なだ)れ込む」という言葉がある。つかもうとした未来は逃げていく。一方に、拒んでも拒んでも雪崩れ込んでくる過去がある。64年の間、そんな思いに苦しんできた人々の祈りが、きょう長崎に満ちる。

春秋 日本経済新聞 8/9
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