水の中「フジヤマの英雄」無我夢中でもなければ、空っぽでもない・・・春秋 八葉蓮華

 旧植民地から連れて来られたアメリカ先住民の泳ぎ方が、英国人の度肝を抜いた。1844年にロンドンの競泳大会で起きた“事件”の記録が残っている。両手を交互に動かすクロールは圧倒的に速く、有力選手は皆ごぼう抜きにされた。

 泳法に制限がない自由形といえば、今ではクロールを指す。滑るように水面を進む人間の身体には、研ぎ澄まされた刃物の美しさがある。とはいえ19世紀の欧州では、水しぶきが「野蛮」だと見なされ、英国紳士は伝統の平泳ぎで競技を続けたという。それから100年後に古橋広之進さんは新記録で世界を驚かせた。

 85年に連載した「私の履歴書」で、水の中で何を考えてきたかを書いている。無我夢中でもなければ、空っぽでもない。子供時代の友だちの消息や、母親と行った場所の記憶。常にさまざまな想念が頭の中を巡っていた。戦後の日本を元気づけたフジヤマの英雄の姿とは別に、1人だけの素顔が水面の下にある。

 「お国のために泳いだつもりはない」。古橋さんは、水流を全身に感じてスイスイ進む感覚が楽しかったそうだ。観衆のためでなく、日本のためでもない。英国人を驚かせた米国大陸の青年も、ただ気分よく泳いでいたに違いない。楽しむ個人がいて、新しい社会が開ける。平成の日本を継ぐトビウオは現れるか。

春秋 日本経済新聞 8/4
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