「パリ祭」シャンソンの本丸パリ・オランピア劇場で日本人ではじめてリサイタル・・・春秋 八葉蓮華

 はじめてリサイタルを開いたのは敗戦2年後の7月14日だった。たまたま会場があいていただけという日がフランス革命記念日。運命なのだろう。日本で「パリ祭」と呼ばれたその日が、シャンソン歌手石井好子さんの代名詞になった。

 若き石井さんが名を成していくさまは、戦後日本が立ち直っていく姿とみごとに重なる。パリのレビューで大勢のダンサーをしたがえて真ん中で歌うようになったのは、30歳になるかならぬかの1952年。「敗戦の後で肩身せまく外国生活をしていた身にとって、誇らしかった」と現地に住む人たちは歓迎した。

 父の石井光次郎は当時運輸相。日本のマスコミが「運輸大臣の娘、裸レビューで歌う」と少々意地悪に報じたのはご愛嬌(あいきょう)として、次第に人気者になりながらパリの虜(とりこ)になる自分を恐れた気持ちを本紙「私の履歴書」で吐露している。「日本に帰ります」と言うと、画家の藤田嗣治は「弱虫ね」とつぶやいたという。

 そんな心根のためか。そのあとも欧米で歌い、68歳にしてシャンソンの本丸パリ・オランピア劇場で日本人ではじめてリサイタルを開いても、この人には「和風」を感じさせるものがあった。日本の「パリ祭」を育て、今年も見届けたのだろう17日に逝った。有楽町での最初のリサイタルからは、もう63年である。

春秋 日本経済新聞 7/22
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